発表要旨


6月18日(土) Saturday June 18   15:10-16:10  Room 1105

基 調 講 演 Keynote Address

                   司会:中林 真佐男(関西外国語大学・短期大学部)

講演者: 船越 博 (関西外国語大学・教授、元外交官)

40年間の外交官生活で痛感したことは「政治」や「経済」と比較して「情報」の影響が強くなったことである。それにもかかわらず、日本及び日本人の自己発信能力が依然貧弱であり、余り改善していないと思う。

「異文化問題」の対処は「文化相対主義」に徹することが基本であるが、同時に「マルチ間の対話フォーラム」は歴史認識の誤解をより客観化することであろう。「米国一極主義」の傾向は「国際協調主義」の理想に反する。米国がこの理想から踏み外さないように真の友人ならば忠告する義務がある。そのためには米国を正しく理解し、かつ、米国から信用されることが必要である。これと同時に現在の米欧間の競争的対抗関係に留意しつつ、今後は東アジアも入れた三極構造の構築が重要となる。米国の保守化が進む現在、EUとの関係強化は米国の暴走を阻止する梃子となろう。

「情報の一極化」も危険である。我々は巨大マスコミの人質になってはいけない。今後は対欧米間と同様に対東アジア、対イスラム等他の文明圏との直接的メディエーションが重視されるべきである。グローバル化の得失を冷静に検討し、ローカル化とのバランスを図ることが大事だと思う。両者の長所を生かすべきであろう。複雑かつ流動的な国際問題も異文化メディエーションを促進し、「対話の場」を維持することにより、「平和の砦」を築くことは可能だと思う。

 

【経歴】

島根県出身。大分大学経済学部経由外務省入省(昭和35 年)、40 年間勤務後退官(平成12年)。その間、アジア・アフリカ、北米、中南米カリブ、欧州の11カ国の大使館・総領事館に27年間駐在勤務した。本省ではアジア局(フィリッピン・インド担当)、情報文化交流部(文化無償担当)、領事移住局(旅券行政担当)に勤務。パラグアイ政府より国家功労勲章受賞(平成4年)。退官後日本国際協力機構(JICA)中南米カリブ・アジア地域担当安全対策アドバイザーとして4年間勤務(平成12年〜16年)。

平成13年、関西外国語大学教授に就任し今日に至る(担当:国際政治学・地域研究V・異文化間コミュニケーション・国際関係ゼミナール)。著書「カナリア諸島−幸福な島々」(本年出版準備中)他。

 

 

 

 

6月18日(土) Saturday June 18   16:20-18:20  Room 1105

 

シンポジウムSymposium

 

日米の異文化メディエーションと展望

 

司 会:  近江 誠(南山短期大学)

シンポジスト: 岡部 朗一 (南山大学)

              船越 博 (関西外国語大学)

              Brian Covert  (フリー・ジャーナリスト)

 

最近の調査によると信頼する組織・機関は、日本が「新聞」64%、米国は「軍隊」86%でトップである。日本人はメディアを信じ、アメリカ人は軍隊を信頼するのは両国の社会現象を物語っている。そして、世界情勢を俯瞰すると、アメリカの一極集中主義は依然として続いている感が強い。ブッシュ大統領再選の背景にイラク戦争の支持があった訳ではない。一方、北朝鮮拉致問題が遅々として解決しないのに、小泉政権は続いている。

基調講演をうけて、日本側から学者の立場でアメリカの政治・経済問題を斬り、アメリカ側からアメリカの真相を暴露し、日本への期待を論じていただく。その上で、グローバルの視点から、日米の異文化メディエーションに関する問題点を指摘し、今後の友好関係のあり方を展望していく。

 

 

 

6月19日(日) Sunday June 19  13:40-14:40  Room 1105

特 別 講 演 Special Lecture

 

                      紹介: 中林 真佐男(関西外国語大学・短期大学部)

講演者: 堀井 令以知(関西外国語大学 理事)

 

公家ことば

 

公家言葉は15世紀の初めごろ京都御所において発生し、宮中に奉仕する女官をはじめ公家仲間に用いられていた。足利将軍家の大奥でも使用され、江戸時代には徳川吉宗のころ幕府の大奥にも広まっていた。皇女や公家の娘が住持した京都や奈良の尼門跡では京都御所ことばが伝えられ、今日まで公家ことばによる言語生活が存続している。

江戸時代に比べると明治維新以後は公家ことばによるコミュニケーションの範囲は狭くなり、最近では世代交替によって、皇室をはじめ、その使用率は減少している。公家ことばが身分差によってどのように使い分けられるかについても触れる。

 

【経歴】

京都大学文学部卒業。テレビ・ラジオの言語学関係番組に出演。2001年・1998年・1988年のNHK大河ドラマの言語指導。「クイズ日本人の質問」に48回出演。NHK「21世紀に残したいふるさと日本のことば」(京都府)を監修。フランス政府から国家功労勲章(1976)、パルム・アカデミック勲章(1974年)を受けた。アメリカのWho’s Who in the World に登録。イギリスのInternational Biographical Centre, Cambridge より The 20th Century Award for Achievement を受けた。新村出記念財団理事長。




6月19日(日) Sunday June 19  10:40-12:10 

 

特別パネル  Special Panel Discussions

 

特別パネル1:英語コミュニケーションの課題ー早期英語教育から大学院まで

 

Room 1105

司会:  松本 茂東海大学

パネリスト: 豊田 昌倫(関西外国語大学)

稲田 美恵子(大阪府池田高等学校)

Peter Ferguson (私立灘中・高等学校、大阪教育大学)

 

文部科学省が小学校における早期英語教育を打ち出してから、都道府県の教育委員会は鋭意実践に取り組んでいる。中学校・高等学校における英語は受験英語からコミュニケーション英語へ方向転換を志向しながら、依然として改善されていない。また、大学・短期大学における英語教育の成果も他国に比べてTOEFLスコアに見られるように、低調と言わざるをえない。さすれば、大学院生は果たして英語の論文を書けるレベルであろうか?

各パネリストが各段階別に現状を報告し、問題点を指摘していく。その上で、相互に討議してその改善点を提言し、日本の早期英語教育から、大学院にいたる英語教授法の改善を示唆する。

 

 

 

 

特別パネル2:大澤真幸氏へのインタビューコミュニケーション研究の可能性−

 

Room 1110

司会:  柿田 秀樹 (獨協大学)

スピーカー: 大澤 真幸氏 (京都大学大学院 人間環境学研究科)

インタビューワー: 藤巻 光浩 (文教大学)

柿田 秀樹 (獨協大学)

 

これまで数年にわたり学会内を中心にコミュニケーション研究の可能性を模索してきた学術局セッションだが、今回はコミュニケーション研究の第一人者であり、社会思想家でもある大澤真幸氏をお迎えして、コミュニケーション研究の可能性を模索していく。大澤氏は、『電子メディア論』(新曜社、1995)や『現実の向こう』(春秋社、2005)などの著書、『ニュース23 』などの番組での宅間守の死刑判決と主体の責任能力についての発言等が知られており、コミュニケーションの持つメディア的側面を近代社会という歴史的文脈の中に位置づけ、社会理論の視点から批評的知見を提出されている。今回はインタビュー形式によって大澤氏の卓越した知見とその可能性の中心を提示できるよう試みる予定である。今後の学術的なコミュニケーション研究の在り方について、これまで本学会が培ってきた知識が学問領域を越えてその重要性を再認識されるべく、此処でコミュニケーションを学術的に研究するにはいかなる姿勢が必要であるのかを再検討し、更なる理論的発展の可能性を模索していく。コミュニケーション研究が領域横断的学問である以上、他分野の理論的知見がいかに伝統を再構築していく可能性を秘めているのか、大澤氏の卓見と英知が与えてくれるであろうと大いに期待するところである。

 


 


 

6月18日(土) Saturday June 18  10:00-11:30  Session 1

 

Room 1105  Session 1  メディアとテクスト  Media and Text

 

Para-national communicationから読みとる異文化メディエーション

―詩人W・H・オーデンの場合―

林 依里子(岐阜大学)

 

 本発表では20世紀を代表する詩人W・H・オーデンが取り組んだ“para-national communication”、“modern cultural representativeness”について試論する。2007年には生誕100年を迎えるW・H・オーデン(1907-1973)は、時代性と社会性に富む詩作品を数多く発表した。注目すべき彼の表現方法は、時代背景の異なる絵画作品を詩作品のテーマに取り入れたり、他の領域の芸術家との共同創作を試みたりしたことにある。例えば、詩作品Musee des Beaux Arts (1938) は、Pieter Brueghel の Landscape with the Fall of Icarus (1558) の描写を、詩作品の中心的テーマとして用いた。ピューリッツァー賞を受賞したThe Age of Anxiety (1947) では、現代社会における空虚な人間の姿を浮き彫りにしつつ、精神的不安感からの解放をBotticelli の La Primavera(1477-1478) の「愛」のイメージで普遍性に結び付けている。一方で、作曲家B・ブリテンとの記録映画Night Mail (1935)や、I・ストラヴィンスキーとの共同創作Rake’s Progress (1951)等を創作した。こうした試みは、価値観の異なる領域や時代性を詩作品に昇華させたという点で、一つの異文化メディエーションと言えるのではないか。くわえて、オーデンの1925年以降のパスポート記述を探ると、29回様々な地域、ヨーロッパ諸国、中国やインド等アジア各国、更にはエジプト等に2ヶ月以上の期間滞在している。その異文化交流は、あまねく詩作品に取り込まれた。この点についても注目ができるのではないか。一般的に「1930年代のプロパガンディスト詩人」として語られてきたW・H・オーデンに新たな評価を見出してみたい。

 

メディエーション考−記号論とメディア論のアプローチを比較して−
松本 健太郎(京都大学大学院人間・環境学研究科) 
 

本発表の目的は「媒介作用」mediationを鍵概念として、それが記号論/メディア論という二つの領野においてどのように扱われてきたのか、そして二つの立場からどのような人間観・文化観が導出されてきたのかを比較することにある。先史以来、人類は多種多様な「媒介物」medium(pl. media)を考案してきた。そのような媒介物のなかには、たとえば自然言語から機械的なメディア装置(カメラ等)に至るまで実に様々なものが包含される。しかも、それぞれに固有の媒介形式は、人間と文化の組成に対して多大な影響を及ぼしてきたのである。人間とその文化とを構成する媒介物(および、媒介作用)に対して、記号論者とメディア論者の立場には明らかな異同がある。R・バルトや丸山圭三郎らの記号論的な視座に依拠するならば、言語こそがあらゆる媒介作用の究極的な成因であり、そこから人間や文化の形成メカニズムが析出される。これに対してM・マクルーハン以来のメディア論的な視座に依拠するならば、諸々のメディア・テクノロジーこそが媒介作用の成因として認識され、そこから、やはり人間や文化の形成メカニズムが析出される。これらの理論的見地に関しては、前者のものを“言語決定論”として、また後者のものを“技術決定論”として解することもできよう。言語コードを基点とした記号論的な言説編成と、テクノコードを基点としたメディア論的な言説編成とを比較した時、その作業からは各ディシプリンに特有の人間理解・文化理解だけではなく、同時に、それぞれに内在する理論的なアポリアが浮き彫りになってくる。本発表ではM・ポスターが提起する“言語論的メディア論”とでも言いうるような識見、とくに、その「言語のラッピング」という発想を手掛かりとして、記号論とメディア論の双方で扱われる「媒介作用」の質的差異と関係性とを包括的に議論し、両パースペクティヴの縫合を図っていく。


The Rhetoric of Principality:
An Investigation of Tricks of Being a Merciful Lion
Junya Hirano (Duquesne University Graduate School)

This study investigates the manipulative rhetoric that political leaders employ to make oppressive power invisible and to disguise their ethos in merciful and admirable fashions by examining the texts of principality written by Machiavelli and Castiglione.  As social systems become complicated and power struggles among nations erupt, the rhetoric of politics no longer appears as an effective democratic instrument of public deliberation that Cicero envisioned.  Cicero’s death represents “the powerlessness of rhetoric” under political leaders who impose their rule by oppressive force, just as an orator, thoughtful and cautious like a fox, cannot hunt a ruler, the lion.  Machiavelli asserts that the politics of the principality consists of two distinct functions: “getting and holding.”  Compared to persuading, or even forcing, the subjects, maintaining the effects of persuasion is more challenging for the prince because oppressive power makes the prince a lion, but he must learn to be a fox to rule his subjects for a long period of time.  Furthermore, Machiavelli emphasizes that the prince can be cruel but should be loved rather than feared.  How can a cruel ruler be loved by the subjects?  To some extent, the rhetoric of the principality manipulate appearances to make the oppressiveness of the prince’s power invisible so that he can be loved by his people and maintain the status quo.  Moreover, Castiglione discusses how likeable appearances are crucial to courtiers in order to obtain credibility to persuade the prince.  In this historical moment, all political issues and debates around the war in Iraq place us in Kafka’s world in which clear and understandable reason have never been provided.  In the end, this study answers questions following: “Have we been tricked to give our political leaders too much favors and trust?  If so, how can we break the spell to undertake effective democracy?”


Room 1110  Session 2    対人コミュニケーション1  Interpersonal Communication 1

 

同性の二者間における自己開示の返報性とその総量:親密度と文化の影響

守ア 誠一(神戸市外国語大学)・内藤 伊都子(日本大学)

 

自己開示に強い影響を与える状況的決定要因として「相手の自己開示の程度」が指摘されている。つまり、人は相手の自己開示と同程度の自己開示を自分もおこなう、という強い「返報性」の存在が指摘されている。しかし欧米での先行研究によると、あまり親密でない関係では表面的な内容に関する自己開示で返報性が生じるのに対して、親密な関係では内面的な内容に関する自己開示で返報性が生じるとの報告もある。そのような親密度と自己開示の返報性に関する研究は、日本人について十分におこなわれておらず、文化的な違いが存在する可能性がある。また、先行研究の多くが同一文化の二者間の自己開示について研究をおこなっているが、異文化間の自己開示では異なる傾向がみられる可能性がある。本研究では、親密度(初期・友人)と自己開示の返報性、およびそこで交換される自己開示の総量の関係について、日本人の特徴を明らかにすると共に、日本人同士と異文化間(日本人と外国人)の違いについて検証をおこなった。日本人大学生1068人から得られたデータに対して共分散構造分析を用いた分析をおこなった結果、日本人同士については、関係が「初期」「友人」のいずれの場合も「日常」的な内容の自己開示よりも「内面」的な内容の自己開示の方が、返報性が高いことが明らかとなった。これに対して、異文化間については、関係が「初期」の場合は「内面」よりも「日常」の方が高い返報性を示したのに対して、「友人」の場合は両者に有意な違いは明らかとならなかった。しかし、交換された自己開示の総量については、親密度や相手の文化に関わらず全てのケースで「内面」よりも「日常」の方が多いことが明らかとなった。また、「日常」と「内面」のいずれについても、日本人同士でも異文化間でも「初期」よりも「友人」の方が自己開示の総量は多く、同じ親密度であれば常に日本人同士の方が異文化間よりも多いことが明らかとなった。

 

3者間会話場面における非言語的行動の役割

磯 友輝子・大坊 郁夫(大阪大学大学院人間科学研究科)

 

コミュニケーション研究の中で2者間会話場面を扱ったものは多いが、3者間会話場面を対象としたものはあまり見受けられない。しかし、日常生活では相互作用単位が必ずしも2者とは限らないだろう。したがって、集団の最小単位である3者集団の中でみられるコミュニケーション行動に関する基礎的データを収集し、2者間会話との共通、相違点を見出していくことは実社会の場での円滑なコミュニケーションの促進に役立つものと思われる。そこで、本発表では、面識度の低い同性3名による男女16組の3者間対面会話データを用いて、会話場面において表出される非言語的行動に注目し、これまでの2者間会話研究の知見を参考にしながら、非言語的行動と対人認知および会話への満足感との関連性を検討する。3者間会話は2者間会話よりも会話相手の数が増えるために、2対1の勢力関係が生じたり(Mills, 1953)、会話への参与が許されない傍観者として扱われるなど(Goffman, 1981)、発話交替やコミュニケーション行動の調整が複雑化する。したがって、積極的に話し手にまわったり、聞き手として参加していることを他の会話者に示さなければ、会話の場から排除され、ひいては非好意的な印象を抱かれてしまうであろう。そこで、様々な非言語的行動が積極的参与の記号として用いられることが考えられる。視線行動は、2者間会話では話し手として聞き手の興味や好意を確認したり、聞き手として話し手への傾聴態度を表すが、3者間会話ではそれに加えて聞き手としてもう一人の聞き手をモニタリングし、会話の展開やバランスを察知する機能としても働くことが予想される。本発表では、視線行動を上記のような3つの機能に分類して印象や会話満足感との関連性を検討し、さらに笑顔やうなずき、非言語的行動の配分といった行動の役割についても考察する。

 

対人コミュニケーション場面における自己主張性方略の規定因
―対人関係と自他意識の観点から―
森泉 哲(南山短期大学)


これまで日本人の対人コミュニケーション方略と対人関係及び自己意識との関連を調査した研究は少なくないが、結果が予想に反することが多々見られた。この要因としては、研究デザインの問題が少なからず関連しているのではないだろうか。具体的には、日本人の対人相互作用は「文脈依存的」であるにもかかわらずアンケート調査ではそれが反映されていないことにある。そこで本研究は、対人関係(親密性と社会的地位)のみが操作されたある特定の対人コミュニケーション場面を記述したヴィニエット(シナリオ)で場面を統制することを通して、対人関係による自己主張性方略の選好とその自他意識との関連を解明することを目的とする。本目的を達成するために、自己主張性方略、文化的自己観、自己主張性、公的自己意識、面子意識の観点から既存または自作の尺度を使用して日本人大学生198名からデータを収集した。対人関係の自己主張性方略の選好に関しては、親密性と社会的地位を独立変数として各自己主張性方略(強制、服従、回避、妥協、統合)を従属変数とする被験者内デザインによる多変量分散分析を行った。その結果、地位と親密性による主効果だけでなく地位と親密性の組み合わせによる交互作用が一部の方略選好に影響を及ぼしているという結果になった。また自己や他者に対する意識の各対人方略への影響の分析には、各意識(文化的自己観、公的自己意識、自己主張性)を独立変数とする重回帰分析を行い、各方略に対してそれぞれ異なった意識が影響を及ぼすという結果になった。これらのことから、自他意識や対人関係の違いによる各コミュニケーション方略の選好度の違いが明らかとなり、自己・文化特性や相手との関係から適切と判断されるコミュニケーション方略が使用されていることが示唆される。今後は文化、場面、対人関係(親、先輩など)の違いによるコミュニケーション方略などの解明が待たれる。


Room 1106  Session 3    地域研究    Area Studies

 

Madame Chiang Kai-shek as the Dragonlady:
A Rhetorical Analysis of the Dragonlady Persona as Conceived and Molded in the United States and Attributed to Madame Chiang Kai-shek
Daniel P. Lintin (Winona State University)

Madame Chiang Kai-shek made an historic speaking tour of the United States in 1943.  Addressing both Houses of Congress and audiences across the country, she employed various personae to enhance her persuasive campaign, such as First Lady, Charlie Chan, and Joan of Arc.  Other personae were attributed to her, the most salient being the Dragonlady.  In the United States, the persona of the Dragonlady had its roots in literature in the Fu Manchu novels.  According to Mary Eleanor Young in her dissertation entitled ‘Aunt Jemima and the Dragon Lady’: Ethnicity and Gender in the Selected Writings of African-American and Chinese-American Women Writers,” Fah Lo Suee, the daughter of Fu Manchu, was introduced in 1915 and became known as the Dragonlady.  When Milton Caniff introduced the comic strip “Terry and the Pirates” in the 1930s, the Dragonlady appeared as one of the main characters.  By the time Madame Chiang spoke in 1943, the Dragonlady was a coherent persona in the minds of Americans.  The question then arises, “How did this persona affect her tour?”  Although the East viewed the dragon in positive terms, the West did not.  In the book of Revelations in the Bible, the dragon had been cast as Satan.  With at least these three characterizations of the dragon or the dragonlady, namely as Satan and the evil Fu Manchu’s daughter and the diabolical rescuer in “Terry and the Pirates,” it is understandable that the people in the United States would cast the dragonlady persona in a negative light.  Unfortunately for Madame Chiang Kai-shek, this interpretation of the dragonlady persona cast a pall on her persuasive efforts in the United States.  When considering intercultural communication, a person who speaks in a different culture may have to actively combat negative personae in order to garner success.



コミュニケーションにおける「単一神教的多宗教性」

―非西洋的視座・多文化主義を超えて―

海谷 千波(獨協大学大学院)

 

異文化コミュニケーション研究は今後,異宗教または宗教間コミュニケーションの様相を呈していくべきである。現代社会においては,一方ではモノやカネのグローバル化が進んでいるが,他方ではローカル化も進んでいるのが現状である。国際的に絶えない民族紛争などに顕著に表れているように,この統合と分裂の問題は依然として残されたままである。この問題を解決するためには文化間というよりはむしろ宗教間の特徴を捉えることが重要であると考えられる。しかしながら,この宗教に関する問題は従来の宗教観の二分法(つまり,「一神教」と「多神教」という分類)では解決できていないように思われる。そこで,本研究の目的は,異文化コミュニケーション研究における従来の理論的枠組みを批評することとし,以下の3つに研究課題を設定する。第1の課題は,異文化コミュニケーション研究における「単一教的多宗教性」を提示することである。「文化的多中心性」・「宗教的多元性」・「単一神教」の概念を基に,コミュニケーション研究の新たな理論的枠組みを提示する。第2は,「非西洋的視座」を批評することである。「非西洋」という術語は,どうして「西洋」に取って代わることが可能であろうか。この二分法を前提としたコミュニケーション研究の問題を指摘する。そして3の課題は,「多文化主義」を批評することである。多文化共生が理想であるなら,なぜ民族紛争が絶えないのであろうか。「多文化主義」の公的空間における,その矛盾を指摘する。以上の点から、本研究が今後の異文化コミュニケーション研究に新たな視座を与えることを期待したい。

 

Communication Developments in the Germany-in-Japan Year
Rudolf Reinelt (Ehime University)

The Germany-in-Japan year (April 2005  to March 2006) sets new standards in many positive as well as negative respects. Designed as a foreign ministry event, Germany has been successful in introducing itself in Japan as one of the top countries in the world in some technical and especially cultural areas. However, it has had less success, especially in the preparatory stages, in other areas, notably communication.  Conspicuosly, in the fundamental areas of mass communication, image building and information providing, deficiencies and delays have led to missed chances, considerable delays and disappointments. This paper investigates whether these issues have been solved after the start in April 2005, and if so, how this has been achieved. Focussing on the communication aspects, this paper also discusses the prospects of the year for reaching its goal to create a more variegated and attractive image of Germany in Japan.  Finally, we will also consider chances for the Germany-in-Japan year to come to a successful conclusion by leading to improved communication between the two countries and their people.



Room 1107  Session 4    意味    Meaning

 

音声分析と批評:人権宣言採択に対して行われたエレノア・ルーズベルトの演説

山上 登美子(日本大学)

 

本発表では1948年12月9日にフランスのパリで行われたエレノア・ルーズベルトの演説Adoption of the Declaration of Human Rightsを取り上げ、その展開方法を分析する。エレノアの生い立ち、国連で人権宣言が採択された時の状況、発音の特徴、話す速さ、区切りとポーズ、強調法など主に音声の要素における特徴を明らかにする。アメリカ英語の発音は地域別に一般アメリカ音型(General American)、東部アメリカ音型(Eastern American)、南部アメリカ音型(Southern American)の3つに大別されるが、ニューヨーク出身のエレノアの発音にはアメリカ東部音型の特徴が聞き取れた。

 

Rhetorical Relations and Speaker's Strategies of Discourse Updating
Kuniyoshi Ishikawa (Meiji University)


I propose a model of speaker's discourse representation in conversational sequences for resolving the problems about the interpretation of structural underspecification. Past approaches that resort to ‘bridging’ inferences cannot account for how a particular reference will be obtained in the context of underspecification. A number of papers have discussed such phenomena in light of anaphoric presupposition. However, the presupposition of ‘the car’ cannot be accommodated in (1c).

   (1)a. Mr. A: Did you hear about John?
        b. Mr. B: No, what?
        c. Mr. A: He had an accident.  
                   The car hit him. / A car hit him.
   (2) -1. Jack was going to commit suicide.
         -2. He got a rope.     [Asher and Lascarides 1998]

In (2), no presupposition is involved when ‘a rope’ occurs, but (2) is nevertheless acceptable as a set of utterances.  In an approach I argue for, the interpretation of utterance sequences must be maximally discourse coherent.  Under this condition, without any presupposition trigger, the sequences must be connected through the available lexical information across events.  It is reasoned that ‘suicide’ by default involves some means as a telic value for achieving a goal: hanging with a rope is part of the suicide event.  This default matching is then endorsed by discourse-pragmatic reasoning: hanging with a rope is ‘normally’ part of Jack’s plan relevant to committing suicide.  Based on the relation between the whole plan and its part, Elaboration, obtains as a discourse rhetorical relation connecting the two events.  This relation turns out to be essential for the discourse coherence of such a sequence of events as the ones in (2).  The discussion further develops into speaker's strategies of particular utterances in Japanese.  Crucially, without the link of a rhetorical relation, there would be no obvious connection between the two events, resulting in discourse incoherence.



Room 1102   Session 5    メタ認知    Meta-Cognition

 

「コンテクスト」を考え直す

大崎 正瑠(東京経済大学)

 

コミュニケーション研究においては、コンテクストは古くて新しいテーマである。よく知られたところでは、その昔文化人類学者のエドワード・ホールが世界の文化を「高コンテクスト文化」から「低コンテクスト文化」まで分類した。これは科学的に証明するのが難しいので一種の仮説と考えられる。本論は、「コンテクスト」について、これまでとは異なるアプローチをする試論である。従来のおおかたの定義は、「文脈」「状況」「前後関係」などであるが、主体となる人間を無視した定義である。そこでコンテクストを構成するものは何かを人間の内面から考える。まず生身の人間が誕生から今の瞬間まで体内に蓄積してきた知識(=内面知)を分類してそれに従い考察してみる。ここでの知識は、単なる知識だけでなく情報・経験・技能・ノウハウを含む。筆者はかつてコンテクストを共通情報や共通経験に基づく「共通認識」と定義した(『ビジネス・コミュニケーション論』1995年)。幾つかの辞書によれば、「知識」は知り得た成果、「認識」は知る作用と成果の両方、「認知」は認識を含めた知的作用一般を指す。したがって包含する範囲の観点から、知識<認識<認知、の関係が成り立ち、「共通認識」より「共通認知」の方がより包括的である。コミュニケーション活動においては知的作用が行われるので、「共通認識」を「共通認知」に広げてみる。なお内面知には認知の枠に入るものと認知の枠を超える知識(暗黙知)がある。暗黙知については別途考える必要があるだろう。さらに独自にコンテクストを幾つかの視点から分類してみる。最後にコンテクストを弱める要因は何かを再吟味してみる。以上を考察することにより、効果的なコミュニケーションとは何かを引出すことができるのではないかと考える。

 

コトバの意味問題U―志向性・志向的クオリアを中心に文化的偏向の観点から―
渡邉 美代子(高崎商科大学)

意味というものは、本質的には心理現象であるため、客観的に、正確に捉えることが難しいという問題を孕んでいる。よって、意味の解明は、究極的には脳科学の発達を待たなければならない難問の一つである。筆者は、認知意味論の見地から、意味形成にかかわる主な二つの要因として身体性と文化的偏向を提唱してきたが、脳科学からの知見を取り入れることで、この見解を裏付けることができると考えている。「コトバの意味問題T―クオリアを中心に前言語的な観点から」(『ヒューマンコミュニケーション』2005年、Vol.33 掲載予定)では、クオリア(質感:qualia)に関する知見にもとづき意味問題について考察を加え、意味づけは脳《身体》で生み出される意識《心》の仕事であり、意識の感じるクオリアが、意味の中核を成すという見解を示した。本論文はこの続編である。この小論においては、志向性ないしは志向的クオリアの知見にもとづき、もう一つの要因である文化的偏向の観点から、意味問題について考察を加える。クオリアは大きく感覚的クオリアと志向的クオリアの二種類に分けられ、これらは異なる性質を有している。感覚的クオリアは、色、テクスチャ、光沢などで、安定した表象として感じられるのに対して、志向的クオリア(ないしは意識されるまではいかない志向性)は脳内のコンテクストによってダイナミックに変化し、意味づけにかかわるという。前者に後者が貼り付いて、心中に立ち上がる表象が意味である。志向性とは、心が「何かに向けられている」という性質のことであり、志向性・志向的クオリアというのは、個々人の経験、状況や文脈、文化的背景などに依存し、変化する性質のものである。そしてこれらが、コトバの解釈において個人差、世代差、職業差、性差、文化差といった多様性を生み出していると推すことができる。志向性については、主観的な現象であるため、よくわかっていないというのが現状であるが、異なる言語・文化を通して眺めると、文化的偏向として窺うことができる部分があると思惟される。日・英語表現の意味構造に見られる相対的な部分は、意味解釈や比喩形成における文化的偏向の顕現であると筆者は主張してきたが、この見解は、意味づけに志向性・志向的クオリアがかかわるという脳科学の知見によって支持される。


Room 1103   Session 6    英語教育1    English Language Education 1

 

Side-by-Side; Comparing Classroom Based Instruction with Computer Aided Instruction

Michael 'Rube' Redfield (Osaka University of Economics)

 

Computer assisted language learning (CALL) offers much, but comes with a high monetary price. In CALL learners can work at their own pace, with intrinsically motivating materials (the computer!). CALL provides the instructor with the opportunity to employ mastery learning, and frees instructors up to work individually with learners. Commercial CALL materials are expensive, however, not to mention the initial and continuing expenses involved in running a computer lab. Are the benefits of CALL actually worth the financial investment? And if so, what is the best combination to use (lab only, lab plus class in English, or lab plus class in Japanese)? This paper presents a study comparing conventional classroom based instruction with computer aided instruction, using the venerable Side-by-Side materials. Side-by-Side was chosen because the CALL course is based directly on the traditional Side-by-Side course. The syllabus is identical, only the media is different, thus affording us a chance to evaluate CALL without introducing extraneous variables. Eight required English classes at a mid-ranked Japanese university participated in the study. Two of the classes were taught using the text based materials, two classes used the computer version of the course exclusively, and four were taught using the lab as a supplement to classroom based instruction (two used English as the medium of instruction, the other two used Japanese). Pre and posttests were administered at the beginning and the end of the first semester of the 2004/5 academic year. A repeated measure ANOVA was undertaken to compare the gain scores of the respective treatments. Statistical results, along with both teacher and student impressions will be presented. In addition, parallel studies using New Dynamic English will be presented. These studies compare lab only versus lab and classroom (in English) plus lab, one covering a single semester, the other one academic year.

 

A Case Study of the Effect of a Shadowing Technique for EFL Learners' Listening Comprehension Skills

Chiyo Myojin (Kochi University of Technology)

 

Recently, more and more Japanese teachers of English point out that a "Shadowing" technique is quite effective for improving Japanese EFL learners’ listening comprehension skills. The Shadowing technique, which has still been unfamiliar to people outside Japan, refers to training Japanese learners to repeat English utterances a couple of seconds delayed as they hear them without looking at their transcription. Although this technique was originally adopted as a method of training Japanese professional simultaneous interpreters of English, more and more Japanese school teachers have started paying attention to the technique and have been interested in actually adopting it in their EFL class recently. However, only a few researchers have actually examined how effective Shadowing is for improving Japanese students' listening comprehension skills.   Therefore, this study examines how much effect Shadowing produces on Japanese learners' listening comprehension skills by chronologically observing two different groups of Japanese university students for two months each. That is, one group of the students did 15 minutes' Shadowing practices in each class for two months, whereas the other group of the students did not do such a practice. As a result, the findings of this study have lead to two conclusions. First, overall, even a short term’s Shadowing practice seemed quite effective for EFL learners’ listening comprehension skills. Secondly, the effectiveness of the learners’ listening comprehension skills were found to improve in those of short conversation questions more than those of long statement-style conversation questions. 

 

英語動詞の記憶再生における身振りの効果
川村 義治(金沢星稜大学)

本発表は,英語動詞の意味を身振りで示すことによる単語の記憶再生効果を報告する.英語の学習では,語彙の記憶がよく問題になるが,言語の記憶はどのように説明されるのであろうか.Paivio(1986)の二重コード化説(dual coding theory)は,記憶過程を説明する有力な仮説のひとつである.二重コード化説とは,情報は言語に関する記憶表象システムと,非言語的な情報に関する記憶表象システムに分けて記憶されるとする仮説である.複数コード化説では,二つのシステムが稼動すれば加算的効果により記憶再生が高まると仮定されている.従来の記憶研究では,単純な動作を表す動作動詞が記憶再生の対象語であった.また非言語的手がかりとして主に視覚イメージ(絵)が使用されてきた.そこで本発表では,動詞の種類と頻出頻度の観点から対象語を選出し,アメリカ手話をモデルにした身振りを記憶再生の手がかりとして実験する。一般に動詞は,統語的には状態的(stative)あるいは非状態的(nonstative)であるかどうか,意味的には主体の意思によって行為が自制的(self-controllable)かあるいは非自制的(non-self-controllable)かどうか,によって四分される.そこで、実験1では単純な動作動詞とは統語的にも意味的にも正反対の属性を持つ状態動詞を用いた実験結果を報告する。実験2では,コーパス資料をもとに,使用頻度が高くて具体的な動作や状態を表す動詞と,使用頻度が低くて意味が抽象的な動詞の再生実験を報告する.名詞に関する過去の再生実験では,具象名詞の再生は抽象名詞のそれを上回っている.そこで今回は動詞に関しても具体性の効果が見出せるかどうかを調査する.二つの実験を通じて、動詞の属性や内容の抽象度に関わらず,身振りは広範囲な内容の動詞の記憶再生を高める手がかりとなることを明らかにするだろう.


Room 図書館学術情報センター2階 CALL 5202教室

Workshop 1   言語教育ワークショップ1

 

インターネットとコーパスを利用してコミュニケーション力を高める

言語教育−CALL読解、語彙、作文指導の試み

北尾 謙治(同志社大学)


 
インターネット上には、英語教育に役立つサイトが多くある。このワークショップでは、その中でもとくにコミュニケーション力を高めるのに役立つサイトを紹介する。

WEBの知識がなくても、英語教材を作成して、WEBで公開し、学習者に利用させることも可能であるので、その容易な方法を実演する。誰でも賀作成できる簡単な文法、語彙、読解、速読の教材作成方法を紹介する。

コーパス(言語の電子ファイル)を使用して、語彙、熟語、コロケーションの頻度を見極めたり、自然な英語の表現を学習することは容易である。作文にコーパスを使用して、より自然な英語を書く方法も紹介する。コーパスを扱うツールも無料と有料のものをいくつか紹介する。GOOGLEは、ある意味で、世界最大の英語のコーパスを扱っているので、それを使用して、英語の用例検索、何が文法的な表現かを決める方法、いかに英語学習に役立てるかの解説をする。ツールによっては、女性的な表現や丁寧な表現などの決定を可能にするものもある。自分でコーパスを作成して、自分に必要なタグをつけることにより、その一般的な規則を見出すような研究も可能である。

DVDで英語の字幕のあるものは英語学習に役立つ。これを利用して、話し言葉の用例検索、ある表現が、どのような場面で使用されるかなどをより明確に理解したり、それに基づく英語指導の方法を解説する.

語彙力を測定したり、語彙テストを作成するのに、語彙の頻度が重要になる。その頻度の決定の仕方、その語彙の例文の容易な作成方法、パソコンを使用した容易な語彙テストの作成なども紹介する。

参加者のニーズにより、関心の高いものは、参加者自ら体験してもらう。



6月18日(土) Saturday June 18  13:00-14:30  Session 2

 

Room 1105    Panel 1 レトリック研究会・パネル Rhetoric Division Panel Discussion

 

コミュニケーション研究におけるテクスト分析の可能性

-レトリック学の視点から

司会: 板場良久(獨協大学)

パネリスト: 畑山浩昭(桜美林大学)
           菅野遼(獨協大学)
           松林邦夫(滋賀大学)

レスポンデント: 藤巻光浩(文教大学)


 従来のコミュニケーション研究で見落とされがちな問題の一つが、「テクストとは何か?」という問いである。この問いの重要性は、コミュニケーション研究の中心課題と考えられてきた文化論や技術論を正当化する「コミュニケーションモデル」の陰に隠れ、十分に論じられてこなかった。しかし、コミュニケーションが決して無媒介な現象ではないことを鑑みるならば、「テクストとは何か」という問いこそが、コミュニケーション研究の中心となるべき方法論的問題である。コミュニケーションモデルの構築は、モデルそのものの信頼性が破綻している以上、その方向性を失っているようにも見える。しかし、テクスト研究とその解釈・批評の方法論は、モデル構築とは一線を画し、今でも様々な学問分野で存続し続けている。このパネルではコミュニケーション研究におけるテクスト分析の可能性を探るべく、テクストのステータスを再構築する理論的方向性を模索したい。

 畑山は、文学を中心とする広義のテクスト分析の目的が常に「解釈」であったことを振り返りながらも,「正しい解釈」の前提については決して合意を得ることはなく,その前提の相違から発生する様々な分析手法や方法論は常にレトリカルであったことを指摘する。菅野は、ジャック・デリダの言語行為理論を援用し、フランツ・カフカの『流刑地にて』に現れる「法」概念に焦点を当て、「法」を行使する主体の力の考察は「法」そのものに力を与えるレトリックと不可分であると論じる。松林は、古代ギリシアの弁論家イソクラテスの『ピリッポスに与う』を取り上げ、そのテクストから読み取れる王という権力とイソクラテスの哲学からなる言説の可能性を考察し、イソクラテスのレトリックの意義を見出していく。各パネリストの発表要旨は以下の通りである。

「テクスト分析の理論と実践におけるレトリック批評」

畑山浩昭 (桜美林大学文学部)

本論文では,テクスト研究のあり方を批評する.文学を中心とする広義のテクスト分析の目的が常に「解釈」であったことを振り返りながらも,正しい解釈はどのようにして得られるかという前提については決して合意を得ることはなく,その前提の相違から発生する様々な分析手法や方法論は常にレトリカルであったことを指摘する.そして,「そのテクストはなぜそのようなテクストになったのか」といった,レトリック的な考え方をテクスト分析に取り入れ,読者の意識の中に発生する意味と照らし合わせながら,テクスト研究が追い求める現代の解釈論とは何なのかを模索する.

「フランツ・カフカの『流刑地にて』に現れる「法」という概念について」

菅野遼(獨協大学)

この論文は、フランツ・カフカ作『流刑地にて』のテクスト内に現れる「法」という概念に焦点を当てて、「法」を前にする主体に対し、「法」が力として現れる事を可能にしているのは一体何なのか?という問題を提起する。法を行使する主体の力の考察は法そのものに力を与えるレトリックと不可分である。ジャック・デリダのパフォーマティヴな言説の機能を反復可能性に見いだす言語行為理論を参照項として「法」の概念を考察してみるならば、主体が自由な選択によって本質的に「法」を「法」として捉えることによって力が作用するというより、むしろ言説がパフォーマティヴに機能することによって主体が「法」を実践する主体として再構成されている契機を見いださざるを得ないことが理解できる。つまり、「法」が力を持ち得るのは、そのレトリカルな言説の力の実践の効果によるものとなる。このデリダの概念を援用し、カフカのレトリックが力の考察にある事実に照射しつつ、その力をパフォーマティブなものとして提示する過程を綿密にテクスト分析する本稿は、法の主体を自然な所与とし、レトリックを法律議論の手段であるとする立場を批判的に乗り越え、レトリックが法の主体に付与する力の考察こそが、レトリック研究にとって重要であることを主張する。

「王への提言—イソクラテス『ピリッポスに与う』より—」

松林邦夫(滋賀大学)

古代ギリシアの弁論教師イソクラテスのテクストを考察し、そのレトリックの意義を見出すことを目的としてこの試論を展開していく。今回扱う『ピリッポスに与う』はニコクレス王の為に頌美や勧告が行われたキュプロス演説と似ていて、さらに現実的視点から王への提言が試みられている。同テーマである彼の代表作『民族祭典演説』(パネギュリコス)で彼の主張はヘレネスにおけるヘゲモンをアテナイに希望する祭典演説という公的発言の場で、ジャーナリスティックに政治的主張を唱えたものだったが、その後アテナイの政治的ヘゲモニーへの言及は色薄くなっていく。そして私的主張の場という法廷裁判の想定で彼独自の哲学が展開されたもう一つの代表作『アンティドシス』以降、彼の執筆にしばらく沈黙が生じることとなる。そこから数年の空白を経て、突如息を吹き返すように作られたのが今回の『ピリッポスに与う』である。その作成時期は史的にも確認出来るようにマケドニアの台頭がさらに著しいものとなっていく時代であった。アテナイに固執していたイソクラテスにとって出身地と異なるこのマケドニアの王の持つ権力とは何を意味して顕揚せしめようとしていたのか。その提言となる予見及び識見はかなり綿密なものだったといえる。そのテクストから読み取れる王という権力とイソクラテスの哲学からなる言説の可能性を考察し、イソクラテスのレトリックの意義を見出していく。



Room 1110  Session 7  コミュニケーション能力  Communication Competence

 

小学校英語活動とコミュニケーション能力についての一考察

−小学校英語活動は児童のコミュニケーション能力を高めるか−

宮曽根 美香(東北工業大学)・會澤 まりえ(尚絅学院大学)

 

2002年度から公立小学校の多くが新学習指導要領のもと、「総合的な学習の時間」枠で英語活動を実施している。小学校への英語教育導入については、松川(2004)が言うように、日本人の英語力改善を目的とした英語教育改革の切り札という見方が一般的である。関連して、小学校がかかげる英語活動の目標も、「英語に親しむこと」に加え、「積極的にコミュニケーションを図る児童の育成」といったコミュニケーションを意識したものが多い。しかしながら、「コミュニケーション」や「コミュニケーション能力」といった言葉の定義や解釈は明らかにされていないのが現実である。本発表の目的は、小学校の英語活動が目指すべき「コミュニケーション」および「コミュニケーション能力」とは何なのか、それらのふさわしい解釈を提案した上で、小学校の英語活動は、果たして児童のコミュニケーション能力を高めるかという点について、検証を試みることである。発表では、実際に小学校で行われている英語活動をベースにして上記の問題を考えるため、宮城県のある小学校の事例を紹介する。また、コミュニケーションの定義やコミュニケーション能力の獲得される方法等、理論的な考察を行う。その上で、「平均的な小学校の英語活動は、英語に限定せず児童のコミュニケーション能力を高めることにある程度貢献する」という仮説を立て、リサーチを行う。リサーチ・クエスチョンは2つで、英語活動を通して・児童の他者への関心と理解が深まり、他者との交流が以前よりも持たれるようになったか、児童のコミュニケーションパターンに変化が生じたかである。検証方法は、授業観察とクラス担任、児童、ボランティア教師へのアンケート調査である。リサーチの結果を考察し、児童のコミュニケーション能力の養成をにらんだ今後の英語活動のあり方を提案する。



対人コミュニケーション能力の形成要因に関する考察:
認知複雑度とコミュニケーションスタイルとの関連
小山 哲春(京都ノートルダム女子大学)


対人コミュニケーション能力の重要性に対する認識はかつてないほどに高く、多くの企業がその社員に求める能力の上位に挙げ、一方で青少年、成人の別を問わず現代人のその能力不足がメディア等で取りざたされる。このような対人コミュニケーション能力を本質的に向上させるには、講習やトレーニングだけに頼るのでなく、この能力に直接関連する根本的な要因(例えば臨床心理、認知心理、言語心理的な要因)を各個人が認識し、それらの要因とコミュニケーション能力の関連のメカニズムを理解することが重要課題となる。本発表では、対人コミュニケーション能力のメカニズムを解明、モデル化し、また将来的に教育機関・一般社会における対人コミュニケーション能力向上のための教育・指導方針にも貢献する、という学問的・社会貢献的両目標を背景とし、その礎となるべき基礎研究として、主に社会認知・言語哲学的要因との関連でコミュニケーション能力形成のメカニズムを考察する。本研究で着目するのは、異文化間でも普遍性を持ち、多くのタイプのコミュニケーションに直接関わると予想される二要因、つまり、各コミュニケーション場面における社会的状況・目的・相手の立場などの複合的コンテクストを理解する能力である「認知複雑性(Cognitive Complexity)」と、各個人がどのようなコミュニケーションを理想・基準とするかの傾向・論理・哲学の指標とも言える「コミュニケーション・スタイル(Message Design Logic)」である。本発表では、日本人大学生を対象にelicitation taskを用いて行ったコミュニケーション能力と予測要因との相関研究(パイロットスタディ)の結果の一部を議論する。認知複雑度と対人コミュニケーション能力の間の相関は認められたが、コミュニケーション・スタイルとコミュニケーション能力との間には、先行研究で報告されている英語圏での結果とは異なる相関が観察された。この結果を踏まえ、今後のプロジェクトの可能性についても言及する。


小学校英語活動における「コミュニケーション能力」の捉われ方とその諸問題

石橋 嘉一(神田外語大学 異文化コミュニケーション研究所)

 

本研究では、現在の小学校英語活動における「コミュニケーション能力」の捉われ方とその諸問題を考察する。平成10年度の学習指導要領改訂以降、総合的な学習の時間の中で英語活動を取り入れる小学校が増加し、現在では約9割の公立小学校で英語活動が行われている。そして、実際の小学校で実践されている英語活動の多くには、「コミュニケーション能力の育成」が授業目標として掲げられている。しかしながら、実際の授業で行われる活動の多くは、チャンツという歌を歌う活動や簡単なゲーム、挨拶等の英会話のフレーズ練習などが主となっている。そのような状況の中、本研究では、現行の小学校英語活動における「コミュニケーション能力の育成」とは一体何なのかを考察する。またそれら現状の小学校英語活動のどこに「コミュニケーション能力の育成」があるのかを再考する。具体的には、JASTECの2004年度全国大会、及び京都市で2004年12月に開催された第1回全国小学校英語活動実践研究大会で報告された授業報告を研究対象とし、小学校英語活動における「コミュニケーション能力」の捉われ方とその諸問題の考察を試みる。

 

 

Room 1106  Session 8  対人コミュニケーション2 Interpersonal Communication 2

 

医師と患者のコミュニケーションが患者満足と医師と患者の信頼構築に与える効果
−患者調査の個票データによる実証分析−

塚原 康博(明治大学)

 

本研究は、日本製薬工業協会の医薬産業政策研究所(高橋由人所長)による医師と患者のコミュニケーションに関する研究プロジェクトの研究成果の一部である。共同研究者は、山内一信、真野俊樹、藤原尚也、野林晴彦、藤澤弘美子および塚原康博であるが、塚原が代表して報告する。本研究で使用するデータは、2004年の11月の末から11月のはじめに日経リサーチのFAX調査を使用してなされた「患者さんの「医療への参加」に関する意識調査」から得られたデータである。調査対象者は、医療消費者であり、回収数は1134である。この調査から得られたデータを使用して、患者満足度と医師と患者の信頼構築度の2つを被説明変数とし、医師と患者の対話の十分さ、医師から患者への情報提供の十分さ(情報提供の内容は、病気の情報、望ましい治療方法、治療方法の選択肢、薬の効果、薬の副作用、薬の飲み方、薬の価格、薬の選択肢の8つ)、医師の患者への接し方(接し方の内容は、患者中心の医療の実践、患者の意思尊重、質問しやすい雰囲気、患者への共感、患者の悩みや相談への対応、治療方法のわかりやすい説明、患者の質問への丁寧な回答、診察時間、患者のプライバシーの遵守の9つである)を説明変数とする回帰分析(ステップワイズ法)を行った。この分析結果から、(1)医師と患者の対話の十分さ、患者中心の医療の実践、患者の悩みや相談への対応、病気情報の提供、治療方法のわかりやすい説明、診察時間、患者への共感は、患者満足度に有意に正の効果を与えていた。(2)医師と患者の対話の十分さ、患者への共感、治療方法のわかりやすい説明、薬の副作用情報の提供、患者中心の医療の実践は、医師と患者の信頼構築度に有意に正の効果を与えていた。

 

パトロナイジングスピーチの目的と弊害:エスノグラフィーで分かる真の姿
野中 昭彦(福岡大学)


病院などで高齢者が過保護な言葉を使われることが見受けられる。医者や看護士が高齢者を見下している訳でないのは明白であるが、どのような意図を基にそのような言葉使いを使っているのか、またそうした過保護な話し方を使用している事に果たして気付いているのかは疑問が残る。小論ではボランティアとしてデイケアセンターにて働きながらエスノグラフィーを行い、その結果入手した質的データとインタビューに基づいて以下の疑問を探った。1).どのような状況下で医者や看護士